メンバー達の独り言
 マーミ

 昨年のクリスマスにギター演奏を頼まれた。そのグループの中にギターを弾く人(S氏)がいて演奏をする予定だったのが、所用のために出席しないということから、その職場(公的機関)に勤務する知人から連絡があった。そのグループは精神的に不安定な人達の集まりで10余名、クリスマス会には担当者、ボランティアを含め20名ぐらい参加した。事前に数曲のリクエストがあり、その中で"地上の星”や"レット・イット・ビー”などはよく知らないので楽譜集めから始めた。当日は2時間程度の行事予定のため、童謡など初見で弾けるものを10曲ほど用意した。
 会場へ入ると、なんと欠席するはずのS氏があ譜面立ての向こうに座っていた。会が始まり先ずS氏が60年代のフォークソングの弾き語りをした。クラッシックギターで正確に弾いていた。4曲で交替した。私は" 母さんの歌から禁じられた遊びまで"10曲ほど弾いたと思う。遅れて参加した人(Y氏)に" 禁じられた遊び"をリクエストされた。
 お茶休憩に入り感想を順番に発表された。ソロは初めて聞いたが「非常に良かった」とほとんどの人がそう口にした。一般的な発言が多い中で禁じられた遊びをリクエストしたY氏は「音にはPからfまであり、それに気をつけなアカン」と一言。で禁じられた遊びはリクエストの前に弾いていたので特に強弱には気をつけたつもりだったのが、かえって気張り過ぎたのでは・・。

 思いがけない人からの素直な感想に、今後の糧にと深く身にしみた。

 myu

 私達が使っているのは、ナイロンの弦を張ったいわゆるガットギター。“クラシックギター”と少々照れくさい名前で呼ばれることもあるが、最近はちょっとマイナーですね。でもガットギターをやっていて良かったなとおもいます。ピアノほどオールマイティーではありませんが、結構幅広いジャンルの音楽が楽しめますから。

 そう言えば私がギターに興味を持ち始めた小学生の頃(昭和40年頃)は、今のようにギターに様々な種類は無かったように思います。そもそもの始まりは、近所にギターを持っているお兄さんが住んでいて、そのギターで時々遊ばせてもらううことでした。その兄さんにしても“クラシックギターを勉強しようと思ってギターを買ったのではなかったはずです。何故って?彼の部屋の壁にはプレスリーや小林明のブロマイドがいっぱい貼られていましたから。

 やや長じて自分のギターを買ってもらいました。しばらく経ってギターの弦は切れるものだということが判り、田舎の楽器屋に行くとナイロン弦は無く、あるのはスチール弦のみ(その包装には古賀正夫氏の顔写真付)。右手の指は爪を使って弾くのだという事を知ったのは弾き始めて3年ほど経ってからでした。そりゃまあ肉球?で「アルハンブラの想い出」を弾くのは非常に困難ではありましたが。これから楽器を始める方、ぜひ初めから先生につくことをお勧めします。

 歌を作って歌う事に憧れたり、ロックに傾倒した時期もありました。あるいはまた古い音楽をやりたくて知人からリュートを譲ってもらったり、リコーダーにも手を染めました(これは今も続いている)。そこそこに何でもできる(器用貧乏な?)ギターとリコーダーがこれからも長〜い友達になりそうです。

 シロート・チアリ    
 
 何年前のことだったか?ピアニストのホロビッツが、「私の中に天使の心と悪魔の心がある限り演奏を続ける」と言っていた事があります。最近、その言葉が繰り返し心に浮かんでは消えるのです。
 ホロビッツの言葉を推察すると、悪魔の言葉とは「音楽で一旗上げてやろう」という、地位や名誉、お金等への執着や野心の事を意味し、天使の心とはそういった野心を捨て去り音楽の神に仕え、気高く美しい音楽の道を行こうとする心のことなのでしょう。
 ギター協会は「天使の心」の集まりであると思われます。一例として、入場無料に加えて、観客にお花のプレゼントサービスを付けて演奏会をしている事などがそれを物語っています。純粋にギターと音楽を広め、皆様に聴いていただく為に。したがって、悪魔の心の強い人は、この協会に長く留まる事は難しいかもしれません。
 私の指導している生徒の中に将来有望な人がいますが、この「天使の心」を忘れないで持ち続けるようなアーティストになって行ってもらいたいものであります。

 やぶ (少し昔の写真しかありませんでした。すみません)

 私の幼なじみが島根県に住んでいる。そんじょそこらにいるような単なる幼なじみなどではなく、親同士が幼なじみという「元祖幼なじみ」のようなものである。そんな彼は昔からフォークギターが大好きであり、暇さえあればギターを片手に歌を歌っていた。それだけでは飽きたらず、最近では作詞作曲まで手がけ、講演を頼まれるとギターを片手に出かけて行き、講演がいつしかコンサートに早変わりしてしまうという、島根県ではそれなりに有名な医者なのである。

 そんな彼と一緒に、島根県で講演をさせて頂く機会があった。まず私が1時間ばかり講演し、その後で彼がギターを片手に1時間あまりコンサートをするという、ちょっと変わった講演だったのである。土曜日の夜にこの講演とコンサートをやった後、つぎの日曜日には島根医科大学で講演させて頂いた。私はこの日のためノートパソコンまで買って真面目に資料を用意して行ったのである。

 島根医科大学での講演の時、最初に講師の私を紹介して頂く際、どういう訳か前日の講演とコンサートの情報が若干間違って伝わり、「やぶ先生は昨日、○○町でコンサートをされて来ました。講演だけではなく歌って踊れる先生と伺っております」って、おい、私がいつ歌った?いつ踊ったんだよ。そのとき運悪く?地元の新聞が取材に来られていた。翌日の新聞にはきっちり「歌って踊れる泌尿器科医」と書かれていた。 私はしばしば島根県で講演を依頼されることが多い。そのうち講演ならぬ「公演」依頼なんて連絡がきたらどうするつもりなのだ?

ギター協会のパートナー達
 姉さん

 ピアノ講師(古典ドイツものが・・・得意かな?)と某旅行会社のツアーコンダクターをしています。通称『姉さん』。私より年上の方までそう呼んでくれます。愛ちゃんと共にSEGUE(セグエ)という音楽のグループのメンバーです。楽屋見舞いになぜかビールやワインを頂いた事があります。ありがとうございました。趣味は食べる事(生きるための基本です)。ギター協会のメンバーとの会食は、ほんと楽しいです。

 愛ちゃん

 ギター協会の“歌姫”愛です
 今年は、私の可愛い×2、愛息子が小学校へ入学します。生まれて2ヶ月目から支障の無い範囲で歌の勉強を再開したので、ミルクセットとおしめセットを鞄に入れて実家やら義姉なんかに預けまっくてレッスンに行ったり演奏会に出演したりしていました。1歳をすぎるまでは、本人も訳がわからず預けられていたんでしょうが、少し知恵が付いてくると私と離れるのを嫌がって玄関先で「ママ〜、ママ〜」と泣き叫んだりして、私もさすがに泣かれると辛くて、振り返らずに泣きながら車を走らせて「私は何をしてるんだろう、私が今している事は正しいのだろうか?」と自問自答を繰り返していました。
 そのうち、息子も預けられる事に慣れ、私が舞台で歌っているを見れる様になると、彼なりに納得したか諦めたかで「今日は演奏会よ」と言うと「ママ、がんばって」と言ってくれるようになりました。初めてその言葉を聞いたときはさすがに涙が出ましたが・・。一生懸命やってきて良かったと、初めて実感出来た瞬間だったかもしれません。
 そうこうしているうちに、そんな息子も保育所に入所し私にも自分の使える時間が増えてきだすと、それまで年に1、2回だった演奏会が、お陰様でここ3年でぐんと増え、気付いたらシーズンに入ると毎週演奏会、ひどい時は堺〜和歌山間をコーラスの指揮と自分の演奏会とかけもち2往復、なんてことになったりして、まともに子供の相手をしている間もない状況。「ママが音楽ばっかりして構ってくれないから音楽は嫌い!」と、いつ言われるかとヒヤヒヤしていましたが、さすが私の血を引いた息子!というのは彼は歌うことが大好きで、親の私が言うのもナンですが、これまた歌が上手い男の子にしてはまあまあ珍しく、とても可愛らしい声をしています。試しに門下生の発表会で歌わせてみたのですが、100人近くの観客歌を相手に物怖じする事無く堂々と「犬のおまわりさん」を歌い上げたのでした。私は舞台で歌う時は観客を見回しながら歌うのですが、彼はそれと同じ事をしたのです。私もその姿に涙が止まらず、伴奏をしてくれた桂子ちゃんなんか、ビデオを見ると泣きながらピアノを弾いている始末。その時彼は4歳、歌い終わった感想は「気持良かった」でした。

 その後、彼は舞台に立つ事にすっかり味を占め、今では私の演奏会に自分も出るといってだだを捏ねるようになってしまっています。保育所に入った当初は「大きくなったらなにになりたい?」という質問に、無理やり「ピアニスト」とか言わせるようにしてましたが、最近は「ママみたいな歌手になる」と自分から言ってくれます。正月に帰省していた弟にその事を話したら「中途半端な夢やなあ」と言われてしまいました。 ほっといてよッ!

 ここ最近、演奏会の準備やら仕事やらで、平日のほとんどが実家で留守番という相変わらずのひどい子育て状況ですが、このまま順調に音楽だけは嫌いにならずに育って欲しいものです。彼にこれだけのリスクを追わせているので、弟の言葉ではありませんが「中途半端」にだけは終わらせないよう、ママさん歌手は今年も奮闘しますっ!・・これは「エッセイ」なのか?ただの「親ばか」披露でしたね。苦笑。

 次回は「コンサートの舞台裏」なんてのにしましょうかねえ